永久の幸福

福寿草子のゆるふわ脳内

同情は嫌悪よりも息苦しい

人生は選択の連続である。常に価値判断が行われ、意思が決定されていく。どちらか迷うのはそれらの選択肢の効用が大体同じだからであり、時には明らかに損な方を取ってしまうのも、「損」とは違う文脈ではそれが得だからである。自分を傷つけ逆説的に自らをコンテンツ化し、損を積極的に選択するインターネットメンヘラのように。わかっている「のに」損を選び取っていってしまうこと、不幸に向かっていってしまうこと、これは万人に共通するとは言えないまでも、ある程度の人には当てはまることだと思う(安易に他者をメンヘラと形容する人のことを、私は軽蔑している)。
行動そのものの損得だけで意思決定すること、対して、それに付随する評価をメタ的に見て意思決定すること。私の言う「自我がない」「考えていない」「意識がない」状態は、前者にあたる。ただし、その時の効用関数が「常識」であったり、「みんな」であったり、「内在化した他者」であったりする場合だけ。自分の中にある価値基準(それが上の三つに全く影響を受けていないはずなどないのだが)のみにしたがって、粛々と意思決定をしていくこと。それ自体は、フラットで、真っ当で、行動それ自体による損が生じにくい。
ただしこれも万能ではない。「生きている感じ」が得られない。葛藤がなく、感傷もなく、わけがわからず胸が苦しくなることだってなく、ただ確からしい決定を下し続けるのは退屈だ。
しかし、あまりにも自分に害をなしてはならない。ほんのちょっとの不幸に敏感に傷つき、表向きには平凡でまあまあ幸せそうな生活に見えるくらいがちょうどいい。精神のためにも、肉体ためにも、社会的自己のためにも。
そこで、意思決定をしない、という方法がある。他者の論理に依るのでもなく、意思決定自体を放棄する。私の場合、具体的に言えば、何かしでかす前に、やるべきこともやらないままに、眠剤で落とす。襲ってくるのは強烈な快感。意識が途切れるか否かというところが最強に気持ちいい。私がどんなひどいことを思いついても、私の身体はもういうことを聞かない。視界はぼやけ、耳は聞こえにくくなり、立ってもいられなくなる。意識は抽象から具体へはじけ飛んでいき、言語は意味のない単語の羅列になる。
神経科に通い始め二ヶ月と少し。朝は元気だが夜は死にたい。夕方からはもう消化試合。帰って眠剤を飲んで意識を手放すことばかり考えている。これを依存と言わずしてなんと言うのだろうか? 先日過食嘔吐したところ盛大に(と言うほどでもないけれど)血を吐き、あ〜あ、やっぱりさっさと意識なんて手放せばよかった、と思った。意識を憎んで自分を憎まず。意識こそが悪なのだ。

絶対的正義で叩かないでください

明けましておめでとうございます。昨年十一月末から一人暮らしを始めました。嫌なことが嫌だと気づいてしまった瞬間それを続けることに異常なストレスを感じるので、やる時は一瞬です。思い立ってから一ヶ月とかけず一人暮らし生活が始まりました。
当初は「なんでも一人でできていいのか、頼ることも必要なのではないか」というようなことを考えていました。能力的に一人でできることでも、あえて人に任せることも必要なのではないか、ということです。一人できるから一人でやらなくてはならないし、それで回せないのは自分のせい、なのでしょうか? でも、自分でできることを人にやらせるって私にとってはとても難しいことです。
じゃあ、してあげる方はどうかというと、こちらも最近苦手に感じています。その時は善意100%で納得していても、あとから価値判断基準が変わって逆恨みすることは十分ありえますし、よくあります。「してやったのに」って思うからだめです。「してあげよう」っていうのがもはやだめです。「(あなたは嫌かもしれないけれど)させていただく」と思っていてぎりぎり安全かどうかです。ひとに何かをするのってとても申し訳ない、ひとに、っていうのはなんか大切な誰かにみたいなことです。申し訳ないけれどしてしまうのは私が全部悪いんです。でも悪いからそんなことほとんどしない。一人でもじもじしているだけです。私が何かをしても相手は得をしないし、むしろ損することが想定されています。なのにしてしまってすみません。損させてごめんなさい。自尊心が低すぎる、自己否定、ではなくて、相手が高すぎるだけです。させていただくほかないんです。だから結局、してあげる場合には、してやってもいいのだと思います。してやってるんだぞって思わないでしてあげるからあとで困るんです。してやるかさせていただくかなんて全く違うのに、それを粉飾しようとするからいけないんです。
人にものを頼むとどうしてもしてやられてしまいます。こちらから要請しているのだからさせていただかれることなんてありえません。だから多分私は自分の立場が下になるのが、というか下だという前提でコミュニケーションするのが嫌で、頼むのが苦手なんです。では、させていただくような相手にものを頼んだらどうなるのでしょうか? そんなの少しも考えたことがありませんでした。そんなお手を煩わせるようなこと絶対にあってはいけないので私は多分我慢して耐えるか一人ですべて引き受けるか新たな技術を習得し一人でできるようになります。でもそれでも何が何でも頼まなければいけないとしたら? そうしたら私はとてもつまらない人間になってしまいます。そういうときは、どうしても頼めずに耐えて苦しんでいるのが一番いいんです。だって、どうやって頼むのでしょうか? 改まるのもおかしいし、普通の人のような口調で普通のことのようにお願いをして普通の人のように返されてしまって、そこで関係は終わります。関係、というとそれは上下関係というか、主従関係というか、私が「下」に甘んじていられる仮想的な関係です。すべてが暗黙で、だから私はそれが本当かどうか忘れてしまうんです。全部嘘でした。そんなのありません。多分私は今だに物語を求めているんです。

 

 

恋は期待、愛は諦め

 私は様子のおかしな子供だった。小学生の時に顕著で、頭を執拗に壁に打ち付け、教室の後ろにある地球儀に向かって助走をつけて突っ込んでいき、意味もなく足踏みをして飛び跳ねていた。その衝動性は一体何だったのかというと、溢れ出る感情だった。感情、気持ち、知覚、感傷、名前はなんだっていいけれど、裡に秘めたる情動だった。
 そんな時代も一応は過ぎ去り、今の私はそれなりに落ち着いている。けれど時々、ハッとしたように意識が戻る。俗に言うメタ認知であり、考える方の私だ。前回はっきりとそれが現れた時、私は大声を上げ喚き散らしたけれど、今回は違った。私はその時自分の部屋でベッドに腰掛けていて、自分の左手首へ視線を落とし、「ああ、切りたい!」と思ったのだった。猛る心を最早律せられずに、何とかして外に出してあげたい、と思った。結局私はその衝動を行動へは移さなかったけれど、それが私の「生きてる感じ」で、絶え間ない言語化の波に飲まれる論理の再構築! その時ばかりは成長のない人生に価値はないと思うし、ぼうっと生きるくらいなら今すぐ死んだ方がいいと思う。けれどその強い気持ちは徐々に解けてゆき、言語化の網からすり抜けていく。今確かに考えていたそのことを、考えていたことは覚えているのにその内容は忘れていく。あっという間に日常が押し寄せ、私は正しく生き、もちろんリストカットはしない。
 私はやっぱり、穏やかに暮らしたいし、生きてる感じを感じたい。矛盾しているじゃないかと言われたって、そうなのだから仕方がない。今までの経験を条件分けし因果付けを行えば筋の通った論理らしいものは得られるかもしれないし、多分私はそういうことをするだろうけれど、それは穏やかさや生きてる感じの反芻でしかない。過去から体系だてられた言語を使って未来を予測してもいいけれど、今の私がそれに従わなければならないなんてことはない。そして何より、そんなものにとらわれたくはない。それは変化がないなら死ぬしかないという自暴自棄ではなく、予測できない新奇へのやまない探究心だ。

背徳は倫理への裏切り

去年の今頃カウンセリングに通っていました。若い女性カウンセラーの馴れ合い感が苦手で、何も解決している気がしないのに通う罪悪感もあり(なにしろ50分8000円でした)、「風邪を引いてしまったので次回の予約はキャンセルします。また治ったら連絡します」と電話してそこから行くのをやめました。そういうわけで、カウンセリングにいい思い出はありませんが、一つ印象に残っているのはカウンセラーに言われた「人のためを思って自分を犠牲にしている」ということです。それを聞いて、「何を言ってるんだこの人は? 私のことなんてなにもわかってない」と思いました。その当時、「自分のことばかり考えるのはやめろ」と怒られたり、私用を優先するとブチ切れられたりしていたので、私は人に対して何もできていないなと思っていたところでした(それを変えようとは全く思っていませんでしたが)。そういうわけでこの言葉はうまく理解できずに字面だけ心に残っていたのですが、その後いろいろなことがあり割と納得できるようになって、今回読んだ本がその一つです。

 

拒食症・過食症を対人関係療法で治す

拒食症・過食症を対人関係療法で治す

 

 

摂食障害の症状(拒食、過食、嘔吐)に対しては何もしないで、他者とのコミュニケーションを見直していきましょう、そうすれば自然とおさまります、といった本です。

ところで私は過食嘔吐ばかりしているように見えてストレス度が上がると拒食になります。高3の夏休みに模試の結果が気になりすぎて7kg落ちたことがあります。その時はみんな気にかけてくれましたね。この本には拒食に対して過食嘔吐は甘えって思われがち、って書いてあったんですがその通りですね!!! 「リスカしてるの知ってたからリスカやめてくれたら過食嘔吐は続けてもいいと思った」って言われたことありますが! 止めろよ! 死ね!

過食嘔吐になる人の特徴として「私が我慢すればいいだけ」と考え、ストレスを溜めていくというのがあります。それに対してはコミュニケーションが必要なんですね。相手にもコミュニケーションする気があるならな!!!

人は大事。

好きな人好き嫌いな人嫌い

弁証法的行動療法(DBT)の話をします。

弁証法的行動療法 実践トレーニングブック‐自分の感情とよりうまくつきあってゆくために‐

弁証法的行動療法 実践トレーニングブック‐自分の感情とよりうまくつきあってゆくために‐

  • 作者: Matthew McKay,Jeffrey C.Wood,Jeffrey Brantley,遊佐安一郎,荒井まゆみ
  • 出版社/メーカー: 星和書店
  • 発売日: 2011/06/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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この本のことはかなり前から知っていました。かつてのメンヘラツイッタラーたちが線を引いてノートをとってTwitterに上げていたものです。またこの本かどうかは知りませんが先輩がDBTの本を読んで実践してボダが改善したと言っていましたね。とにかく効果がありそう、というのが以前からの印象でした。ではなぜこれを読んでさっさとメンヘラを治さなかったのかというと、だってそんなことしてメンヘラが完治してしまっては大変じゃないですか。わたしにずっとあったのはたぶん自己否定感でした。メンヘラをやめたらわたしにはなんの個性も残らない。でもメンヘラである限り一生だれにも愛されない。結局これらはメンヘラであってもなくても「わたしには価値がない」ということを言っているのですが、メンヘラであれば人の気を引けるし、だれにも愛されないのを自分のメンヘラのせいにできる。それに刺激のない生活はつまらないんです。自分のからだが、感情が、制御できずにこぼれ落ちていくような感覚は率直に言って気持ちいいんです。というわけでわたしはメンヘラだったし、メンヘラをやめようとしているメンヘラでした(なにしろメンヘラというのは外聞が悪いから開き直らない方がいいし、治そうとするそぶりをするのもまたドラマなのです)。この本を手に取り、おとなしく机に向かってノートを書いているとき、わたしは、自分のメンヘラがすこしずつ解体されていくのを感じました。惜しいような気もしたけれど、まあ、十分堪能したしなあ、とページをめくりました。<おわり>

私と生きたいなら論理は捨てて

世の中のことはだいたいふわっとしている。なにごともきっちり折り目ただしく明らかに解明したいという欲求と、たぶんそれは歓迎されていないという社会的めんどうくささ、表面上後者が勝っていても私の心は前者で、はっきりしないことへのいらだちがただただ募る。認知の歪みを修正することはすこしずつできているような気がして、結局白黒はっきりつけたい二極思考は健在だ。
論理の殴り合いを不毛に感じる。自分の中の矛盾を隠すようにうまく体系立てて作られたのが「論理」であり「価値観」であり「信条」だと思うので、認知の歪むところが異なればそれだけ論理も異なる。見えない前提が異なれば論理は噛み合わない。人をただしさで殴り殺してやろうという高揚感、組み敷いたときの征服感は痛いほどによくわかるけれど、その過程で消費されるエネルギー、終わったあとのやましさを考えるとあまり気が進まない。いっときの優越感はすぐに不安へと変わる。私の言ったことは本当に「ただしく」、そして相手の言ったことは本当に「間違っていた」のか? 幾度もその過程を反芻し、私は敵の味方をして自分のあらを探してしまう。他者は他者であり、私と異なる論理を持つ。私の中でただしい私は相手の中では間違っていて、そして残念なことに、私にはそれがわかってしまう。
人との関わりの中ではなんらかの形で噛み合わないことが出てくる。論理で戦えないなら感情で戦えばいい。そこにあるのは自分たちを前提にした具体的なお話し合いで、たぶんお互い嫌な思いはしたくない、実際問題仕方ない、という諦めのお話し合い。そうやって場当たり的な前例で、つぎはぎだらけの論理を作っていけばいい、だって論理はあとづけ、感情を統合するだけのものだから、といういつもの結論です。

20170613お薬メニュー

サプリのメモです。リンク貼ろうと思ったけど面倒なのでまあ気が向いたら貼ります。

計32錠/日。

 

朝昼晩