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永久の幸福

福寿草子のゆるふわ脳内

福寿草子ちゃん生きてる価値ないよ!

 お世辞と謙遜が言えない。「すごいね」「そんなことないよ」――本当に感心している時、本当に否定している時にはすんなりなめらかに発せられる言葉が、いざ言わなくてはならない場面になると、喉元で引っかかって出てこない。思ってもいないことは言えないのだ、と思っていたけれど、どうやら違うらしいことに気がついた。だって私は普段、思ってもいないことを平気でしれっと口にする。ただ、「思ってもいないこと」を「本当に思っているように」言う、これに苦痛を感じる。とはいえ、いくら嫌がったってお世辞と謙遜なく生きていくのは得てして難しく、言うべき時はありそんな時は口にするのだけど(私だって少しばかりの社会性は身につけているのだ)、その時の、自分の顔が怖い。「ちゃんと笑えているか?」「ちゃんとしおらしく見えるか?」そんなことばかりが気になって仕方なく、そんなことばかり気にしているからおそらくちゃんとはできていない。「お世辞だ」と「謙遜だ」と、「こいつは嘘を吐いている」と、思われていると肌に感じながら平然を装うのは、本当に、つらい。
 そういう状況を強いるもの、たぶん「空気」と呼ばれるものを、私は「倫理」と呼んでいる。「こういう時にはこう言わなくては、こういう時にはこう行動しなくては」という倫理。私はそう考えてはいないけれどその場の誰かは明らかにそう思っていて、それに背くと余計面倒なことになるから、私はいつも倫理に負けてしまう。他者の倫理に、負けてしまっているのです。それが冠婚葬祭、それに準ずる特別な会合の一瞬で済むならいい。ほんの少し我慢すればいいだけ、実際私は月に一度あるかないかくらいの出来事だと思っていた。けれど違った。他者の言動に倫理の働かない時などおよそなく、私は常に、他者の倫理に負けていた。負け続けていた。
「そんなもの気にする方が悪い」と私は言う。他者の倫理でぐずぐずになった私は、他者の言葉を使って私を責め立てる。「お前は伝える努力したの」「また考えなくてもいいこと考えて」「よく被害者面できるね」、などなど、とどまるところを知らない。なんだって私ばかり責められなきゃいけないんだ、私ばかり、いつもいつも、私ばかりだ。平生から存在している死の選択肢が、急に近くへ迫ってくる。死ぬか。
 もう死ぬしかない、は視野狭窄。闘う力もないからって不戦敗とは限らない。勝敗が全てを支配する問題のフィールドから降り、ジャッジされないところへ逃げ出すことだってできるのだ。ここで問題から逃げ出すことのメリットを三点述べます。一つ目、勝負から逃げることで直接的な被害を被ることがなくなります。二つ目、新たなダメージを受けないことにより今までのダメージを回復する余裕が生まれます。三つ目、問題から距離を置くことで問題を俯瞰して見られるようになります。
 視野狭窄から抜け出すのに一番手っ取り早いのは比較だ。過去の他者の倫理との比較、異なる他者の倫理との比較。比較で見えてくるのは、あの人はこう、この人はこう、という「私じゃない何者か」の差異だけではない。それを通して、バージョン違いの私を発見できる。過去の私、異なる他者との接している時の私。さっきまでの私とはまるで違う、と私は驚く。他者の倫理に脅かされてまいっていない。「どの私が本当の私?」なんてどうでもよくって、だって正しい歴史認識の必要はなく今がよければいいだけだから、だから私は他者の倫理との闘いを強いられる場所には戻らない。
「ひとつでも自分に良い影響を与えてくれるなら、そこを評価しよう」というのが肯定的に語られるけれど私は全くもって同意できない。いくつ良い影響があったってそれを上回る悪影響があるのなら、それは、全体としては駄目でしょう。これは私が全体対象関係を掴み始めていることを示唆していて、人類にとっては小さな一歩だが私にとっては偉大な飛躍だ。
 他者に倫理があるということは、私にも倫理があるということで、当然、私の倫理に死にかかっている人がいるかもしれない、ということである。私は「自分の倫理を大切にして!」と声を大にして叫ぶが、これこそが私の倫理であり他者の倫理と相容れないところなのだ。まあ私に害を及ぼさない限り他者なんてどうでもいいので、私は私の倫理を最優先にして生きる。他者の倫理に負けるのは悔しくないけれど、他者の倫理から逃げることを選択せざるを得なかった私は悔しくて、「なんで私ばっかり」とお得意の被害者面を歪めて泣いた。