永久の幸福

福寿草子のゆるふわ脳内

私と生きたいなら論理は捨てて

世の中のことはだいたいふわっとしている。なにごともきっちり折り目ただしく明らかに解明したいという欲求と、たぶんそれは歓迎されていないという社会的めんどうくささ、表面上後者が勝っていても私の心は前者で、はっきりしないことへのいらだちがただただ募る。認知の歪みを修正することはすこしずつできているような気がして、結局白黒はっきりつけたい二極思考は健在だ。
論理の殴り合いを不毛に感じる。自分の中の矛盾を隠すようにうまく体系立てて作られたのが「論理」であり「価値観」であり「信条」だと思うので、認知の歪むところが異なればそれだけ論理も異なる。見えない前提が異なれば論理は噛み合わない。人をただしさで殴り殺してやろうという高揚感、組み敷いたときの征服感は痛いほどによくわかるけれど、その過程で消費されるエネルギー、終わったあとのやましさを考えるとあまり気が進まない。いっときの優越感はすぐに不安へと変わる。私の言ったことは本当に「ただしく」、そして相手の言ったことは本当に「間違っていた」のか? 幾度もその過程を反芻し、私は敵の味方をして自分のあらを探してしまう。他者は他者であり、私と異なる論理を持つ。私の中でただしい私は相手の中では間違っていて、そして残念なことに、私にはそれがわかってしまう。
人との関わりの中ではなんらかの形で噛み合わないことが出てくる。論理で戦えないなら感情で戦えばいい。そこにあるのは自分たちを前提にした具体的なお話し合いで、たぶんお互い嫌な思いはしたくない、実際問題仕方ない、という諦めのお話し合い。そうやって場当たり的な前例で、つぎはぎだらけの論理を作っていけばいい、だって論理はあとづけ、感情を統合するだけのものだから、といういつもの結論です。