永久の幸福

福寿草子のゆるふわ脳内

恋は期待、愛は諦め

 私は様子のおかしな子供だった。小学生の時に顕著で、頭を執拗に壁に打ち付け、教室の後ろにある地球儀に向かって助走をつけて突っ込んでいき、意味もなく足踏みをして飛び跳ねていた。その衝動性は一体何だったのかというと、溢れ出る感情だった。感情、気持ち、知覚、感傷、名前はなんだっていいけれど、裡に秘めたる情動だった。
 そんな時代も一応は過ぎ去り、今の私はそれなりに落ち着いている。けれど時々、ハッとしたように意識が戻る。俗に言うメタ認知であり、考える方の私だ。前回はっきりとそれが現れた時、私は大声を上げ喚き散らしたけれど、今回は違った。私はその時自分の部屋でベッドに腰掛けていて、自分の左手首へ視線を落とし、「ああ、切りたい!」と思ったのだった。猛る心を最早律せられずに、何とかして外に出してあげたい、と思った。結局私はその衝動を行動へは移さなかったけれど、それが私の「生きてる感じ」で、絶え間ない言語化の波に飲まれる論理の再構築! その時ばかりは成長のない人生に価値はないと思うし、ぼうっと生きるくらいなら今すぐ死んだ方がいいと思う。けれどその強い気持ちは徐々に解けてゆき、言語化の網からすり抜けていく。今確かに考えていたそのことを、考えていたことは覚えているのにその内容は忘れていく。あっという間に日常が押し寄せ、私は正しく生き、もちろんリストカットはしない。
 私はやっぱり、穏やかに暮らしたいし、生きてる感じを感じたい。矛盾しているじゃないかと言われたって、そうなのだから仕方がない。今までの経験を条件分けし因果付けを行えば筋の通った論理らしいものは得られるかもしれないし、多分私はそういうことをするだろうけれど、それは穏やかさや生きてる感じの反芻でしかない。過去から体系だてられた言語を使って未来を予測してもいいけれど、今の私がそれに従わなければならないなんてことはない。そして何より、そんなものにとらわれたくはない。それは変化がないなら死ぬしかないという自暴自棄ではなく、予測できない新奇へのやまない探究心だ。